仰看三笠暮雲微 三笠を仰ぎ看れば 暮雲微かに
山上晶晶月照幃 山上には晶々 月 幃を照らす
曾使古賢懐故里 曾て古賢をして 故里を懐わしめ
爾来脈脈送清暉 爾来 脈々として 清暉を送る
(註一) 晁卿=阿倍仲麻呂
(註二) 三笠=古都奈良の三笠山(御蓋山)をさす
令和三年九月 光琇
・第十四回諸橋轍次博士記念漢詩大会二〇二二 佳作作品
阿倍仲麻呂の唐名は晁衡または朝衡といい、詩題の晁卿の卿は役職名です。717年に遣唐使に同行して唐に留学し、官吏に登用され要職を歴任します。しかし、玄宗皇帝に気に入られたのが災いし、長らく帰国の要望を受け入れてもらえませんでした。やっと753年に帰国が許されて出航しましたが、途中で遭難して戻され終生帰国は叶わぬ夢となりました。
百人一首にもある「天の原ふりさけ見れば春日なる、三笠の山に出でし月かも」の歌は、阿倍仲麻呂が異国で月を眺め、その月をかつて見た故郷の三笠山の月と重ね合わせて故郷への思いを募らせたものです。日本への出航に際して、送別の宴で王維ら友人を前にして日本語で詠ったということですが、時点や場面については諸説があります。
意訳 三笠山を仰ぎ看れば、夕暮れの雲が微かに浮かび、山上では月がきらきらと幃を照らしている。かつて(唐の地で)阿倍仲麻呂に故郷の三笠山を想起させたこの月は、それ以来脈々ときれいな輝きを送り続けている。
台湾民主化の父とよばれた李登輝元総統が今年の7月30日に逝去されました。享年97歳の大往生です。日本と台湾とは国交がないため、現職の政治家ではなく森元総理が弔問しました。
日本の敗戦により50年に及ぶ日本の統治下から解放された台湾は、大陸から逃れてきた蒋介石の国民党に統治されることになり、台湾土着の本省人は大陸から入ってきた外省人の支配と迫害を受け続けました。
絶代巨星南海殞 絶代の巨星 南海に殞ち
訃音如汐遍人寰 訃音 汐の如く 人寰に遍し
無私尽瘁護家国 無私 尽瘁し 家国を護る
遺業聳然凌玉山 遺業は聳然として 玉山を凌ぐ
(註一) 尽瘁=心身の力を尽くして苦労する
(註二) 玉山=台湾の最高峰(三九五二米)、日本名は新高山
(ニイタカヤマ)
令和二年八月 光琇
意訳 この上なく大きな巨星(李登輝元総統)が南海におち、その訃報は汐の如く世間に流れた。私を殺して心身の力を尽くして台湾を護ってきた、その遺業は台湾の最高峰である玉山を凌ぐといっても過言ではない。
李登輝元総統は、10代後半に日本に留学(京都大学)し、その後台湾に帰国して国民党に属し、1996年に本省人として初の総統となりました。そして国民党の内部から改革を進め、台湾に民主主義を定着させました。その後民進党に政権交代しましたが、民主主義は引き継がれ共産党一党独裁の大陸とは一線を画しています。
彼の台湾での民主主義の推進と、大陸からの独立を死守してきたステイツマンとしての姿勢は、わが国を含めて世界中から高く評価されています。また彼は、いつまでも大東亜戦争の自虐思想(東京裁判史観)に拘泥されている日本人に対して、もっと自信をもつようにとのメッセージを発してきました。
平成29年の中秋の名月は10月4日で、その翌々日の6日が満月です。中秋の名月と満月の日がずれることはよくあるそうです。そのずれが生じる理由は国立天文台のウェブサイトを参照してください。関西では見事な中秋の名月を鑑賞できたので、写真撮影に挑戦しました。月だけを撮ることは成功しましたが、景色を併せて撮るのはなかなか難しいですね。
8世紀の半ば、遣唐使として長安にわたり、李白や王維などとも親交があった阿倍仲麻呂はこの月を見て、「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠って日本を懐かしみましたが、帰国はならず770年に73歳で客死しています。現在、中国の西安と鎮江にはこの歌を漢詩の五言律詩にした歌碑があります。
中秋山月竹籬邊 中秋の山月 竹籬の辺
舉首閑人懐古賢 首を挙げて閑人 古賢を懐う
可憫晁衡歸國夢 憫むべし晁衡 帰国の夢
郷愁萬里遶東天 郷愁は万里 東天を遶る
(註) 晁衡=阿倍仲麻呂の唐名
平成二十九年十月 光琇
意訳 山にかかる中秋の名月を望む竹垣のほとりで、頭を掲げて閑人(私)は昔の賢人のことを思っている。賢人・阿倍仲麻呂の帰国の夢がかなわなかったのは憐れであり、郷愁は遥か東の空をめぐったことだろう。
足摺岬は四国の南西端の土佐清水市に位置しており、眼下に黒潮を眺望できます。灯台より少し離れたところにジョン万次郎の銅像が立っており、その大きさに圧倒されます。
ジョン万次郎こと中浜万次郎は、幕末1827年に貧しい漁師の次男として生まれました。14歳の時に仲間と漁に出て遭難し、島暮らしをしているところを米国船に救助され、万次郎は船長に気に入られて米国で教育を受けます。その後帰国しますが、日本は鎖国状態であったため長期にわたって尋問を受けた後に土佐へ戻りました。万次郎は米国で得た技術や語学力を活かして教育や日米交渉などで活躍しました。
土佐西端南海涛 土佐の西端 南海の涛
向風銅像聳天高 風に向いて銅像 天に聳えて高し
蒼茫万里雲外翔 蒼茫万里 雲外に翔け
青史留名幕末豪 青史に名を留む 幕末の豪
(註) 蒼茫=水が青々とはてしなくひろがっているさま
平成二十九年十月 光琇
意訳 高知県の西端の南海の波高いところで、風に向かって銅像が天高く聳えている。海が青々と果てしなく広がる遙か雲外のかなたを駆け巡り、歴史に名を遺した幕末の英雄、ジョン万次郎の像である。
京洛禪堂比叡邊 京洛の禅堂 比叡の辺
幽庭留古絶塵縁 幽庭古を留め 塵縁を絶す
詩仙六六丈山撰 詩仙六々 丈山の撰
先哲風懐萬世傳 先哲の風懐 万世に伝う
(註一) 詩仙六々=部屋の壁に掲げられた三十六詩仙人の
詩とその肖像をさす
(註二) 風懐=石川丈山の風流を愛する気持ち
平成二十七年九月 光琇
意訳 京都の比叡山のふもとにある詩仙堂。そのしずかな庭は昔の雰囲気を留めて世間の喧噪を絶している。石川丈山が選んだ36人の詩仙の肖像と詩が部屋に掲げられており、丈山の風流を愛する気持ちを後世に伝えている。
石川丈山は江戸時代初期の儒学者、書家、漢詩人ですが、徳川家康に仕え大坂夏の陣で活躍した武人でもあります。漢詩では富士山が有名で詩吟の定番になっています。1641年、59歳で詩仙堂を造営し、没するまでの30余年を清貧の中で過ごしました。詩仙堂と呼ばれている建物は、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、その一室が詩仙堂です。丈山は中国の詩人36人を詩仙として選び、その肖像を狩野探幽に描かせ、各詩人の詩を自ら書いてその部屋の四方の壁に掲げています。
学生時代には京都の一乗寺に下宿していたことがあり、そこから自転車で大学に通っていました。一乗寺は、下り松で宮本武蔵が吉岡一門を迎えて決闘した所として有名です。その近くに曼殊院と詩仙堂があり、今回詩仙堂を訪れたのは学生時代以来50年振りでした。一乗寺の街並みはすっかり変わっていたので、下宿していた所は残念ながら見つかりませんでした。
阿倍仲麻呂は若くして学才が認められ、717年に19歳の若さで唐の長安に留学し、そこでとんとん拍子に出世しますが、玄宗皇帝の覚えが良かったために、なかなか帰国を許してもらえなかったようです。やっと許可が出て帰国の途に就くも、暴風のために難破して漂着地から引き返すはめになり、結局日本の土を踏むことなく73歳で客死しました。
百人一首の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、長安で王維らがセットしてくれた帰国送別会における、阿倍仲麻呂の留別の和歌と言われています。ここで留別とは、別れて去っていく人が留まる人に別れを告げることです。仲麻呂は漢詩でもって留別することも考えたかもしれませんが、奈良の都への郷愁というデリケートな心境を表現するのには、日本語のほうが適していると思ったのでしょう。
志学遣唐千里航 志学遣唐 千里の航
臨帰恩愛割愁腸 帰に臨んで恩愛 愁腸を割く
東天皓皓仰山月 東天 皓々 山月を仰ぎ
心緒遑遑夢故郷 心緒遑々 故郷を夢む
(註) 遑々=心が落ち着かないさま
平成二十七年三月 光琇
意訳 学を志して遣唐使となり唐にわたったところ、(玄宗皇帝に有能さを見込まれてどんどん出世し)帰国を許されずに愁いが募るばかりであった。遥か東の山上の白い月を仰ぐと、故郷の三笠山が思い出されて心が揺らいだことであろう。
磅礴凌雲富嶽前 磅礴たり 凌雲富岳の前
甲州武将対蒼天 甲州の武将 蒼天に対す
覇図不就遺名句 覇図就らずも 名句を遺し
清興高懐詩入玄 清興 高懐 詩 玄に入る
(註一) 磅礴=生気がいっぱいに満ち溢れる
(註二) 清興=世間的なことを離れた風流な楽しみ (註三) 高懐=高尚な心
(註四)入玄=奥深い
平成二十五年十月 光琇
武田信玄は、領土拡大の過程で越後の上杉謙信と川中島で5度戦って勝利したことや、「風林火山」の軍旗を用いたことで有名です。家康でさえも、三方ヶ原の戦いで信玄に敗れてからは一目置いていました。信玄は土木工事でも優れた才覚を発揮しています。甲斐は河川の合流地点に当たり、洪水に悩まされてきました。彼は、洪水を自然に逆らって堤防で抑え込むのではなく、洪水を逃がす「信玄堤」という仕組みを考案し、農産物の生産に必要な治水・利水に注力しました。晩年、西上作戦中に三河で病没してから、家督を継いだ勝頼は長篠の戦いで信長・家康連合軍に大敗して最後には天目山で自害に追い込まれ、戦国大名としての武田家は滅亡します。
2013年9月末に韮崎市で開かれた「国民文化祭・やまなし」の漢詩の部に参加した時に、信玄は優れた漢詩を遺した、ということを知りました。甲府駅前には信玄の銅像がどっしりと睨みをきかせています。
意訳 雲を凌いで高く聳える富士山の前で、生気に満ちた甲州の武将の像が青空に向かって立っている。天下統一の夢は成らなかったが名句を世に遺している。風流で高尚な心をもって作った詩は奥が深い。