漢詩こぼれ話

◇良寛和尚の漢詩

◇和臭(習)について

◇漢詩人としての乃木希典

◇マルクス経済学者の漢詩

◇漱石は負け惜しみが強い

◇少年老い易く学成り難し

◇国歌「君が代」

◇七歩の詩

◇絶世の美女王昭君の悲劇

◇中国の客人との酒席で

◇漢詩作りに段級位はない

◇中国の小学校の教科書

◇漢詩の作詩ムラは・・・

◇百人一首を漢詩に

◇漢詩の形式

◇漢詩とビジネス文書

◇形式を重視しても・・・

◇田中元z首相の漢詩

◇海江田万里氏の漢詩



良寛和尚の漢詩

 漢詩には、脚韻や平仄という悩ましいルールがあります。脚韻や平仄を守っていない漢詩をコンテストに応募しても、漢詩と認められず門前払いになります。このルールは、李白や杜甫が活躍した唐の時代に近体詩という形で確立し、我が国でもその伝統を受け継いでいます。しかし、韻も平仄も中国語で読んだときには韻律を整える働きがあるのですが、我が国では漢詩は日本語で読み下すので全く韻律に反映されません。

だからというわけでもないのでしょうが、良寛和尚は韻や平仄を度外視した漢詩を作っています。良寛和尚といえば、俳句、短歌、書という印象が強いのですが、漢詩の作品も多く、以下の半夜という詩は晩年のわびしさがにじんでいます。この詩の意味は平易なので解説は省略しますが、必要な方は関西吟詩文化協会のウェブサイトを参照してください。

回首五十有餘年(首を回らせば 五十有余年)、人閒是非一夢中(人閒の是非は 一夢の中)

山房五月黄梅雨(山房五月 黄梅の雨)、半夜蕭蕭灑虚窓(半夜蕭蕭 虚窓に灑ぐ)


和臭(習)について

 漢詩の作詩において「和臭(習)」という言葉があります。読んで字のごとく、日本語臭いという意味です。漢詩に日本語の語彙(和語)を混ぜると漢詩独特の響きが壊れて日本語臭くなるので、和臭を避けるために、和語に合致した漢語を用いる必要があるといわれています。しかし、杓子定規にこれに従うべきでしょうか。自作の漢詩集に「二条城」という詩を載せていますが、この中では「大政奉還」という和語を用いています。この語彙は日本人に定着しているので、無理に漢語に翻訳しない方がいいと考えました。

 2017年の全日本漢詩連盟の漢詩大会の応募テーマは「城」(中国語の街という意味ではなく城本体)でした。応募作品の中で、「天守(主)閣」を使った漢詩が多かったようですが、これは漢語ではないから和臭として門前払いになりました。「楼閣」とか「城郭」という漢語を使えということなのでしょうが、門前払いはひどいですね。実際、「天守閣」を用いた日本人による漢詩は数多く残されています。

 和語を用いることによって漢詩独特の響きが壊れてしまうのは確かにまずいと思います。しかし、和語を用いても漢詩の響きが壊れない、あるいは和語の方がベターであると思われるものまで、和臭として排除するのは行き過ぎだと思います。


漢詩人としての乃木希典

 乃木希典は、若いころは文武のうちの武にはあまり興味を示さず、文人をめざしていたようですが、ある時から武のほうに方向転換してどんどん出世していきました。しかし、旅順における203高地のロシアとの激戦では多くの死傷者を出したため、司馬遼太郎の「坂の上の雲」では無策の大将としてこき下ろされています。

乃木希典は、この激戦のさなかにも漢詩を作り続けていたようで、生涯の作詩数は二百数十首に及びます。その中でも乃木三絶といわれる三首の絶句が特に有名で、本場の中国でも高い評価を得ているようです。日本の漢詩本に必ずと言っていいほど登場するのが三絶の一つである「金州城下の作」で、以下はその詩文です。山川草木轉(うたた)荒涼、十里の風腥(なまぐさ)し新戦場、征馬前(すす)まず人語らず、金州城外斜陽に立つ。この詩は、叙景詩ではありますが、各句の裏に乃木希典の情(気持ち)がにじみ出ています。すなわち、叙景詩の形を借りた叙情詩になっており、それが高い評価の理由の一つになっているのではないでしょうか。三絶の他の二首は、「爾霊山」と「凱旋」です。これらの詩文は省略しますが、「爾霊山」は「203」と「爾(なんじ)の霊が眠る山」とのかけ言葉になっています。旅順の203高地の頂上には、爾霊山と書かれた銃弾を形どった慰霊碑が立っています。「凱旋」は、「多くの兵士を死なせて彼らの親に合わす顔がない」という内容の詩文になっています。

歴史に「もし」はNG でしょうが、仮に乃木希典が武人ではなく専ら文人の道を歩んでいたら、彼や彼の家族、日露戦争はどうなっていたでしょうか。それは皆様の想像にお任せします。


マルクス経済学者の漢詩

 戦前のマルクス経済学者であった河上肇は、京都帝国大学の教授でしたが、教授職を辞して日本共産党に入党し実践活動を行ったため検挙されてしまいました。その後5年間の獄中生活を送ることになるのですが、獄中では読書の範囲が制限されます。しかし漢詩は危険思想と思われなかったので、獄中に漢詩の本を差し入れてもらって次々と読破していきました。そして出獄後には漢詩の作詩を始め、専門家から高い評価を得る漢詩を多く残しています。60歳を過ぎてからの作詩活動です。

蛇足ですが、京都大学は戦後も左寄りの経済学者が主流であったと思います。私の学生時代は、ベトナム戦争や公害問題などの社会悪をただすという大義名分のもとに戦う左翼がかっこよく、自身のノンポリを後ろめたく感じたものです。しかし、内ゲバや浅間山荘事件で左翼の内情が世にさらされ、さらにその後ソ連邦が崩壊し、中国の人権弾圧や地上の楽園と言われた北朝鮮の窮状が明らかになりました。そして今や国内では、反対のための反対を繰り返す左翼そのものが社会悪になってしまった感があります。


漱石は負け惜しみが強い?

 夏目漱石の漢詩は本場中国での評価が高く、彼は日本を代表する漢詩人であるといわれています。しかし、彼の漢詩は難解なので解説はウェブサイトにお任せします。ところで、夏目金之助のペンネームである「漱石」は、「漱石枕流(石に(くちすす)ぎ流れに枕す)」という故事から来ているということはご存じでしょうか。

晋の時代、孫楚という人が、「隠棲して、『石に枕し流れに漱ぐ(枕石漱流)』ような清い生活がしたい」というところを間違って、「石に漱ぎ流れに枕す(漱石枕流)」と言ってしまい、友人に間違いを指摘されました。ところが孫楚は、「歯を磨くために石に漱ぐのだ、耳を洗うために流れに枕するのだ」とこじつけて言い逃れをしたので、負け惜しみが強くて言い逃れをする人をさして漱石枕流という故事成語が出来ました。あっさり間違いを認めた方が楽だと思うのですが、漱石枕流の人は結構周りにいると思いませんか。


少年老い易く学成り難し

  平成2929日の日本経済新聞の一面のコラム「春秋」に、表題の漢詩が紹介されていました。起句(第一句)と承句(第二句)のみの紹介でしたが、転句(第三句)と結句(第四句)も示すと、「少年易老学難成(少年老い易く学成り難し)、一寸光陰不可軽(一寸の光陰軽んずべからず)、未覚池塘春草夢(未だ覚めず池塘春草の夢)、階前梧葉已秋声(階前の梧葉已に秋声)」という七言絶句です。有名な勧学の詩なので解説は省略します(参照ウェブサイト)。

 このコラムで問題にしていたのはこの詩の出所です。そこでは、「宋の時代に儒教の中興をなしたとされる朱子の『偶成』とされているが、実は室町時代の禅僧が作ったとの見方が強まっている。子供たちの心に刻みつけたくなる詩であったので、明治政府が朱子の権威を借りようとしたのではないか。もしそうだとしたら、本末転倒だろう。」という趣旨のことが述べられています。そしてそれをさらに敷衍して、文部科学省の組織的な天下り斡旋を批判し、「多感な子供たちに人の道を説こうと旗をふるかたわらで、初歩の道徳をないがしろにする。伝統芸なのだろうか。」と結んでいます。

 しかし私が不思議に思うのは、「役所の内と外に天下りの窓口があり、相互にコミュニケーションをとりながら天下りを斡旋するというのは、すべての府省のスタンダードな天下りシステムであるにもかかわらず、なぜ文部科学省だけが批判にさらされているのか」ということです。このシステムは、民主党政権時代にはかなり自粛されてなくなったかに見えましたが、自民党政権に戻ると、雨後の筍のごとく見事に復活しています。


国歌「君が代」

 国歌斉唱の時に起立を拒否する反日日本人の先生が時々ニュースになります。たぶん「君が代」の歌詞が気に入らないのでしょう。間違った理解やゆがんだイデオロギーに基づく子供じみた行動はバカげています。しかし、それが将来を担う子供たちを教育する学校の先生ということになると、見過ごすわけにいきません。全漢詩連會報第55号(2017.1.1)に、全日本漢詩連盟評議員である坪井憲和氏の「君が代と白髪三千丈、君が代は長寿を祝う賀の歌だ」という投稿がありましたので、以下にそれを紹介しておきます。

 小学・中学・高校で国歌「君が代」を卒業式等の前に歌唱指導は行いますが、「君が代」の歌詞の正しい意味を、どうして教えないのでしょうか。小学校では学校長が、中学・高校では国語の教師が古典の授業などで教えるべきだと思います。義務教育の場で教えてやらないから、自国の国歌が歌えない人や「君が代」は天皇を讃えた歌だと誤解して歌おうとしない者がいるのには驚きます。(中略)

 国歌「君が代」の原型は古く、十世紀初頭に編まれた「古今和歌集」の巻第七賀の歌にあります。巻七賀の歌の一番最初に、題知らず-読み人知らず「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」〔私の(夫または妻に対して)あなたは(この年まで長生きしてきましたが)、もっともっと(できれば十年でも二十年でも)長生きしてください、もし叶うなら小石が集まって大岩と化して、その岩の表面に苔の生える頃までも。〕とあります。(中略)

 「君が代」を素直に読んでみてください。長寿を祝う賀の歌ですから要するに「皆さん(いのちを大切にして)長生きしてくださいよ(長生きしましょう)」との主旨だと思います。人は誰しも長生きしたいと願うものですから、これほど万人向けの平和なすばらしい国歌はほかにあるでしょうか。(以下略)


七歩の詩

三国志演義では、魏の曹操は悪者で蜀の劉備は気配りのできるリーダーのように描かれています。映画になったレッドクリフでは、曹操は完全に悪者扱いです。確かに曹操は若いときに無茶をやったようですが、最後に天下を統一したことからもわかるように、三国のトップの中では最も優れたリーダーだったと思います。曹操の家督を継いだのは息子の曹丕で、その弟が曹植です。

曹操、曹丕、曹植3人は文人としても優れ、詩も遺しています。3人の中では曹植の文才が突出していたようで、これを妬んだ曹丕は父の曹操が死んだ後に、「お前は文才があるそうだが、それなら7歩歩く間に詩を作ってみろ。できなければ死刑だ。」と曹植をいじめました。曹植は即座に、「豆を煮るに豆(がら)を燃やす、豆は釜中に在りて泣く、本(もと)は是れ同根に生ぜしに、相煎ること何ぞ太(はなは)だ急なる」という詩を作りました。「兄さん、なぜそんなに弟である私を激しく攻撃するのですか」という内容の詩で、これには曹丕も恥じ入って、それからはいじめを少し控えたようです。

 この詩は中国では「七歩の詩」として有名で、兄弟げんかを戒める子供の教材にされていたようです。一人っ子政策の廃止が発表されたので、この詩が教材としてまた復活するかもしれません。


絶世の美女王昭君の悲劇

 中国の四大美女は、「西施」「王昭君」「貂蝉」「楊貴妃」と言われています。白楽天は、このうちの王昭君についての七言絶句を作っており、その結句(第四句)で「如今却似画図中(如今却って画図の中に似たり)」と嘆いています。「(彼女は)今や絵に描かれた(醜い)容姿になってしまった」という意味です。

 紀元前1世紀、前漢の元帝は毎夜後宮に出向いて大勢の宮女の中から相手を選ぶのが面倒なので、絵描きに宮女を描かせてそれを見て選ぶことにしました。宮女達は元帝の寵愛を受けるため、絵描きに賄賂を渡して自分を美しく描かせました。しかし王昭君は気位が高く賄賂を渡さなかったため、醜く描かれました。ある日、匈奴との戦略結婚の相手として皇女(皇帝の娘)を一人差し出すことになり、元帝は醜い王昭君を皇女と偽って差し出すことにしました。彼女がお別れの挨拶に来た時、元帝は初めて王昭君を見て、あまりの美しさに差し出すのが惜しくなりましたが、約束を破るわけにはいかないので、やむなく彼女を匈奴に送りました。なお、この事件により画家たちは賄賂が発覚し全員殺されました。

 匈奴は砂嵐の吹きすさぶ厳しい気象であったため、彼女の美貌はたちまち衰え、あの絵に描かれた醜い王昭君のようになってしまった、というのが数百年後に白楽天が作った冒頭の詩です


中国の客人との酒席で

 中国から客人があり酒席を設けました。しばらくして場が盛り上がってきたので、酒の勢いで、「私は日本の李白と呼ばれている。」とホラを吹いてしまいました。客人はすかさず、「李白は酒を飲むと即興で詩を作ったそうだが君はどうだ。」と突っ込んできました。杜甫は「飲中八仙歌」の中で8人の詩人を取り上げ、李白については「李白一斗詩百篇」と、同時代の先輩である李白を評しているのです。

 そこで早速、平仄はデタラメながら、「大阪午雨潤軽塵(大阪の午雨 軽塵を潤おし)、客舎青青柳色新(客舎青青 柳色新たなり)、勧君更尽一杯酒(君に勧む更に尽くせ一杯の酒)、東入扶桑多故人(東のかた扶桑に入れば故人多し)」と紙に書いて渡しました。「大阪では昼下がりの雨が塵を洗い落とし、ホテルの柳は青々としている。さあもう一杯グッと飲んでくれ、東にある扶桑(=日本)に入れば故人(=友人)が多いのだから。」という意味です。客人はしばらく真面目に読んでいたのですが、突然笑い出しました。というのは、この詩は、王維の「元二の安西に使いするを送る」という有名な七言絶句をもじったものだったからです。東京五輪エンブレムでも問題になりましたが、盗作はすぐにばれてしまいます。


漢詩作りに段級位はない

 以前業界紙から、会社の経営方針の取材を受けました。次々と発せられる質問に対して、「社員が活々と働ける環境づくりを進めたい。」「社員の技術力を高めたい。」・・・・・というように答えていたのですが、最後に「個人的な質問ですが、趣味は何ですか。」との質問がありました。「へぼ碁と下手なゴルフです。」と答えたところ、「囲碁は何段ですか?ゴルフのハンデは?」と畳み掛けられました。ちょっと困って、「囲碁は(初段と答えてもよかったのですが)何段といえるような腕ではないし、ゴルフのハンデは恥ずかしくて言えない。」と答えました。

翌日の記事で趣味のところが気になったので読んでみると、そのことは何も書かれていませんでした。趣味とは、ある程度のレベルに達しないと趣味と認めてもらえないようですね。囲碁もゴルフも、腕を上げたいとは思っていますが、囲碁はまだしも、ゴルフは至難の業です。その半年後に出会ったのが漢詩作りです。詩吟には段級位があるようですが、漢詩作りには段級位がない(と思う)ので、今度取材を受けたら「趣味は漢詩作り」と答えようと思っていました。しかし、残念ながらそれ以降の取材で趣味を聞かれたことはありません。


中国の小学校の教科書

 中国にはカナがないので、小学生はいきなり漢字を習います。私の見た小学2年の国語の教科書は横書きの漢字文です。漢詩(教科書では「古詩」と記述)も載っており、中国では小2で早くも漢詩を習っていることがわかります。その中に杜牧の「山行」がありました。教科書の原文は簡体字ですが、「遠上寒山石径斜、白雲生処有人家、停車坐愛楓林晩、霜葉紅於二月花」というのがその詩で、結句(第四句)は大変有名な句です。「霜葉は二月の花よりも紅なり」という読み下しになり、「霜にあたって紅葉した楓は夕日に映え、二月の桃やスモモの花よりも赤く美しい」というような意味です。

 杜牧には目の不自由な身内がいて、その世話をするために許嫁としばらく別れることになりました。10年以内に戻ってくると約束していたのですが、離別が長引いたために、戻ってきたときには許嫁は10年待った後に別の男性と結婚して子供もいました。そんな彼女を見た時の、「今の彼女は(少し齢をとったが)若いときよりずっと美しい」という未練がましい思いがこの詩の裏の意味だそうです。その話はフィクションかもしれませんが、もちろん小学校の教科書には裏の意味は載っていません。


漢詩の作詩ムラは超限界集落

漢詩の作詩ムラは超限界集落

20139月に山梨県韮崎市で行われた「第28国民文化祭・やまなし2013」の漢詩の部で表彰式があり、その時発行された入賞・入選作品集の巻末に、応募者数とその年齢構成が掲載されていました。それを見て気になったことが2つあります。

一つ目は応募者数です。日本全国からの応募者数は568人で、漢詩作りをする人がこの23倍と見積もると、漢詩作り人口はせいぜい1500人程度ということになります。これは日本の人口の概ね0.001%10万人に1人)に相当します。二つ目は超高齢化です。応募者の年齢構成は、70歳代が最も多く(39%)、次が80歳代(28%)、その次が60歳代(23%)となっています。90歳以上の2%も含めると、漢詩を作る人の90%超が60歳以上ということになります。

高齢化で人口減少が続く地域(限界集落)がそのうち消滅してしまうのではないか、という危惧が社会問題化していますが、日本では漢詩の作詩ムラも危機的状況になっているわけです。漢詩の作詩ムラを維持するためには、若者の参入を促すための取り組みが必要でしょう。


百人一首を漢詩に

 小倉百人一首を漢詩にしている武部健一という方がいます。1925年生まれで1948年に京都大学土木工学科を卒業され、建設省(現国土交通省)・旧日本道路公団で主に高速道路の計画・設計に携わってこられた技術者(工学博士)です。以前に著書を読んだことがあります。今の高速道路網が古代の幹線道路網と一致していることを晩年に踏査して確認したという内容であったと記憶しています。

 短歌を漢詩にするには、短歌の背景や情景を付加して内容を膨らませなければいけません。そのためには、一首ごとに研ぎ澄まされた感性を注入する必要があります。一首を作詩するだけでも大変なのに、百首の漢詩をなんと3ヵ月で作詩されたそうで、私には神業としか思えません。全日本漢詩連盟の「全漢詩連会報」で武部氏の漢詩が数首紹介されていました。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも(安倍仲麿)」は、「三笠山嶺半月浮(三笠の山嶺半月浮かび)、天空浩浩一星流(天空浩浩として一星流る)、他郷節季似残夢(他郷の節季残夢にも似て)、明日長安去不留(明日長安去って留まらず)」という七言絶句になっています。


漢詩の形式

 漢詩は唐の時代に形式が確立し、その形式で作られた詩は「字数」「押韻」「平仄(ひょうそく)」があります。

絶句は4句、律詩は8句より成ります。各句の字数については、五言絶句(律詩)、七言絶句(律詩)ではそれぞれ5文字、7文字と決まっています。また、五言の場合は2字・3字、七言の場合は2字・2字・3字という区切りで詩語が入ります。

偶数句の最後は同じ韻(母音のひびき)のグループに属する漢字にするというのが押韻です。七言絶句では第一句でも韻を踏むのが普通です。韻のグループは106種あり、グループを代表する漢字を韻目といいます。たとえば、韻目が「先」のグループには、「天」「前」「千」などが含まれています。

漢字は、声調によって平声か仄声のいずれかに区分されます。七言絶句の平仄を例にとると、各句の2字目と4字目は平仄を違え、2字目と6字目は平仄を同じにします。また、第四句は第一句と同じ平仄パターンですが、第二句と第三句は第一句の平仄を反転させます。平仄には、これ以外に「孤平や下三連を避ける」といった規則もあります。


漢詩とビジネス文書

 漢詩の素晴らしさの一つは「歯切れ良さ」です。七言絶句を例にとると、28文字という少ない文字数の制約があるため、重複などの冗長さを排除しつつ起承転結のシナリオを展開する必要があります。この凝縮された無駄のなさが漢詩的な雰囲気を生み出します。二つ目は「韻律の美しさ」です。韻律とは、発音の高低や字数などによる調子のことです。漢詩を中国語で読むと、規則正しい平仄や押韻により美しいメロディーが生じます。

 このうちの「歯切れの良さ」は、ビジネス文書でも必要とされる要素です。漢詩作りにおいては、必ず主題とシナリオ(起承転結など)を最初に考える必要があります。ビジネス文書でもこの習慣を身に着けて簡潔な文書作りに努めれば、「何を言いたいのかわからない」「論旨が通っていない」と言われることがなくなります。また漢詩作りでは、転句(第三句)や結句(第四句)に主題を持ってくることが多いため、まずそこを固めてから、導入部の起句(第一句)・承句(第二句)にバックして考えることがよくあります。そのやり方を普段のビジネス文書作りに適用すれば、なかなか核心に迫らない提案書で上司をイラつかせるようなことがなくなります。


形式を重視しても・・・

 わが国の漢詩大会などに、近体詩の形式を守らない詩を応募しても絶対入選しません。しかし当の中国では、すでに唐の時代と漢字の発音が変わっているため、漢字の平仄がわからない人が結構います。また近体詩は約束事が多いこともあって敬遠され、自由詩の作詩が多いと聞いています。

 字数・押韻・平仄といった規則に準じた詩は、中国語で吟じたときに美しい韻律となります。ところがわが国の詩吟などでは、漢詩は読み下し文(日本語読み)で吟詠されるため、字数・押韻・平仄を守って作詩をしても韻律に関係しません。韻律が関係しないわが国で押韻や平仄を重視する一方、韻律が関係する中国でそれらを重視しない傾向にある、というのは何とも皮肉なことです。

 中国から輸入された詩の形式に加えて、「詩文の漢字は正字(旧字)を、日本語の読み下し文は常用漢字を用いる」といったわが国独自の規則もあります。この規則にはそれなりの理由があるのでしょうが、旧字はそれを習っていない戦後生まれの世代にとってはなじみが薄く、若い人たちを漢詩から遠ざけてしまうことが懸念されます。ちなみに、中国の教科書では漢詩は簡体字で横書きになっています。


田中元首相の漢詩

 田中元首相は、19729月の日中国交正常化交渉の時に自作の漢詩でその時の気持ちを表現しました。「国交途絶幾星霜、修好再開秋(とき)将到、隣人眼温吾人迎、北京空晴秋気深」という、日本語の読み下し文なしでもわかる平易な七言絶句です。わが国ではこの詩に対して、平仄・押韻無視、同字重出(秋という漢字が2度出てくる)、吾人迎の語順は間違い、空は天が正しい、などの理由で「漢詩とは認められない」「日本の恥」「側近が事前に注意すべき」などの批判があり、まるで元首相の人格否定のようにも聞こえます。

 この詩は、格調が高いとは言えませんが日中国交回復に対する元首相の思いを素直に表現しており、すがすがしい印象を与えます。唐・宋の時代には、漢詩は高級官僚などごく限られた人たちのたしなみとして庶民とは一線を画した文化だったわけですが、農民を重視した毛沢東や周恩来の時代には、このような平易な詩は現地の受けが良く、気持ちが十分伝わったのではないでしょうか。

 ゴルフなどのスポーツ界では、プロは当然アマよりレベルが高いわけですが、プロがアマのレベルの低さをこき下ろすことはありません。アマもアマで、レベルが低いなりに自分たちの仲間内でのゴルフを楽しみ、プロのプレーに学びます。元首相の漢詩に関しては、アマが自分の気持ちを自由詩で表現したという、ただそれだけのことです。形式を重視すべきというのもわかりますが、それ以上に大切なのは、元首相に対する寛容さとサービス精神の評価だと思います。


海江田万里氏の漢詩

 201212月、総選挙で民主党が惨敗した後、海江田氏が民主党党首に選ばれ、同氏は記者会見で自身の心境を七言絶句に記して披露しました。こんな場面は、明治時代なら珍しくなかったと思いますが、漢詩離れが進んだ今日ではめったにお目にかかれません。その詩は、「臘月扶桑戰鼓鳴、寒天寡助計無成、將軍功尽萬兵斃、粉骨砕身全此生」というもので、詩の読み下しや意味は本人が直接解説されています。海江田氏は、漢詩の本を書いておられるぐらい漢詩の造詣が深いので、私がこの詩についてとやかく言うのはおこがましいですが、当時の氏の複雑な心境がうまく表現されていると思います。また、韻や平仄といった近体詩の要件を満たしているのは言うまでもありません。

 ところがこの詩が披露されると、早速某全国紙に、「海江田氏は典故の解釈を誤解している」という某漢学者による批判が掲載されました。ここで典故というのは、故実にかかわる詩語を用いることにより、詩に奥行きをもたせる高等な手法です。漢詩の世界では、なぜかすぐに重箱の隅をつつくようなケチをつけたがる「知識人」が出現します。一部のまずさを理由に全否定していたら、漢詩作りムラはますます限界集落化してしまいます。なお、この批判を批評して返答を求めた人がいたようですが、某新聞社からも某漢学者からも返答はなかったそうです。